わからないが最上。
そんなふうに思ったりする。
僕達はどうやら、頭の声主体で暮らしている人間と、感覚主体で暮らしている人間がいるみたいだ。
頭の声を主体として暮らしている人間は、知識を集めるのが好きだ。集めた知識を元に、人を判断し、自らを判断し、生きていることが多い。
その人は一見賢く、聡明な人に映るかもしれない。なにかの学問でノーベル賞を取ったり、素晴らしい学術書を書き上げるかもしれない。
感覚主体で生きている人間は、自らの身体向上させることが好きだ。また、肉体を限界まで追い込み、あるものは崖の縁で倒立をし、ある者はエベレストをも超える難易度の、前人未到の頂きを目指す。
その人は一見強く、屈強に映るかもしれない。誰も成し遂げたことのない世界記録を打ち立てたり、何かの大会で金メダルを3年連続で受賞するかもしれない。
頭主体の人間は、すべてを吸収する。頭で持って吸収し、あらゆる常識、あらゆる情報を頭に詰め込む。そしていつしか、鬱々とした気持ちに苛まれることになる。
私は劣っている。私は優れている。あいつは劣っている。あいつは優れている。そのようにして自らと他者を比較し、落ち込んだり、誇らしい気持ちになったりする。
そう、頭を軸に、ぐるぐるぐるぐると、上がったり下がったりを繰り返す。あの知識を手に入れたら私は満たされる。この知性を失ったら私は地獄に落ちる。
彼ら彼女らは恐れる。知識を軸にぐるぐると回る。
感覚主体の人間は、肉体を鍛える。肉体を鍛え、誰よりも強い肉体を求め、誰よりも美しい肉体を求める。
あのひとは強い、あの人は弱い、あの人は美しい、あの人は醜いと、人と自らをジャッジし、比較をし、落ち込んだり、自らに誇りを持ったり、忙しい忙しい。
彼ら彼女らは恐れる。肉体を失うことを。老いることを。
頭主体で生きている人間は恐れる。感覚主体で生きてる人間も恐れる。そして欲望する。
私はもっと頭を良くしなければ。
私はもっと強く美しくならなければ。
私はもっとすべてを理解しなければ。
私はずっと一番でいなければ。
そうしてぐるぐるぐるぐると、同じところを回り続けるのだ。
そう、お気づきの方もいるかも知れないが、頭主体の人間も、感覚主体の人間も、「私」である。
頭主体の人間は、感覚主体の人間のことを「なんか馬鹿っぽい。」「キラキラしてるアピールウザイ」「私はあいつからは学ぶことなどない」そのようにして、人と自分を分離させ、相手を下に見ている。
感覚主体の人間は、頭主体の人間のことを、「なんか理屈っぽくてつまんない」「頭いいアピールウザイ「私はあいつからは学ぶことはない」そのようにして人と自分を分離させ、相手を下に見ている。
しかし実は、本当の充足に満ち満ちて、生き生きと、嬉々と、この生を歩いていきたいのであれば、頭主体の人間は体主体の人間から学ばなければならず、体主体の人間は頭主体の人間から学ぶ必要がある。
残念なことに、知識を追い求めるものは、知識でもって幸せになることはできず、感覚を追い求めるものは、感覚でもって幸せになることはできない。
本当に学ぶべきは、「学ぶ必要がないと思い込んでいるものから」なのだ。
そして、改めて言うが、頭主体の人間も、感覚主体の人間も、別れていない。一つだ。
両者ともに、私の体に存在している。
私の体は、両方とも、おんなじだけ持っているのだ。
頭に頼りがちなものは、知識を少し手放し、体を動かすと良い。体の感覚を感じてみたらいい。
感覚に頼りがちなものは、少し体を休め、ゆったりと本でも読む時間を作ってみたらいい。
本当に必要なものは、「必要なさそうなもの」だったりするのだ。
真に頭と体が一つになったとき、そこには人間ではない「何か」が姿を見せるだろう。
そして、「何か」が私だと、気づくのです。
頭と体は一つになって、今を踊りだすでしょう。