理想を手放した人

それらを目指しているとき、私はしあわせだろうか。






それらになろうとするとき、私の心は平安だろうか。







エゴは言うかもしれない。そこへ行けば、お前は満たされると。









ただ、それは全くの虚言だ。







もし、そこに達したとして、お前は次にこのように考えるだろう。「これから先、このままやっていけるだろうか、、、」と。





もしくは、「今のうちにもっと稼いでおこう」「もっとお金が欲しい」「もっと拡大させよう」と。







そして、あれやこれやと、手に入れるかもしれないし、手にすることができないかもしれない。










もし、家を手に入れ、車を手に入れ、恋人を手に入れたとしよう。





しかし、それらは一時の喜びである。それらを手に入れる過程というのは、着々と進んでいく自らの望み通りの世界に、胸が高鳴るであろう。







そして、それらが全て完成したとき、お前は言う「やっと完成した!」「なんて素晴らしいんだ!」と。







その時、お前の心は高揚し、心は充足で満ちるだろう。







しかし、2〜3日もすればお前は言う。「なにかが足りない」と。







そして、お前はまた、次なる目的地を求める。そしてそこへ向かうだろう。エゴは言う。「次はなにをする?」「どこへ向かう?」と。







そして、「お前はそのままでいいのか?」と、彼はお前にそう耳打ちする。








そしてお前は未だに彼の奴隷であるがために、「俺はこのままじゃだめだ」と、彼の挑発に乗るのだ。







そうして再び、なにかを手に入れるた旅を始める。






もしくは、不意に「これが失われたらどうしよう、、、」と、お前は言い始める。事実、これは全くもって”お前の声”ではないのだが。







「10年先、俺はこの生活を維持できているのだろうか、、、」と、お前の頭には不安がひょっこりと顔を出すだろう。







そしてその声の奴隷であるお前は、今あるものを維持しようと、せっせと努力を始めるのである。












そんなことをお前は何年も、何世紀も繰り返してきた。









そして気づくのだ。「これにはなんの意味もない」と。





「これでは一生心は満たされない」と。







あいも変わらず、お前の頭の中のねぐらから、エゴは頭をもたげで言うだろう。「次はなにをする?」と。








しかしお前はもう知っている。







彼の言葉は「虚言」であるということに。











彼は、それしか知らないのだ。その方法しか知らない。なにかを目指し、なにかを手に入れる。そしてそれを守ろうとする。もしくはそれをより拡大して、更に満たされようとする。








彼は本当に、それしか知らないのだ。それで幸せになれると思っているのだ。そういった機能なのだ。








しかしお前は気づき始めている。それでは幸せになれないということに。




それでは、ただ同じ場所をぐるぐる回るに過ぎないということに。












そして、彼の虚言を信じなくなる。






彼は再び言うだろう。何度だって言うだろう。「次はなにをする?」と。






しかしお前はもう、彼の奴隷ではない。










お前は、彼の言葉をただ、赦し、あるがままにほうっておく。そしてただ、今に寛ぐのだ。









お前は、今したいことをし、ただ働き、ただ日々を過ごすだろう。







彼は言う。そんなんじゃ刺激が足りない!と。








しかしお前はもう、彼の言葉はただ、木々のざわめく音となんらかわりないということを知っている。








特に意味もないということに。







ただ、木々は木々として、風に吹かれて葉と葉をぶつけ合い、音を出す。








それは彼らがやろうとしてやっているものではない。


ただ、自然の起こりとして、そうなっているのだ。そして、ただの自然の起こりとして、その音がなっている。












それと同じように、彼が「それじゃ刺激が足りないよ」と嘆いても、お前はもう、その言葉を、言葉として捉えない。









意味のあるものとして捉えない。自然の起こりとして、自然が起こすBGMとして捉える。











そして、ただ、その言葉をバックに、今いる場所で鼻歌を歌う。ただ空を見上げ、微笑む。










そしてお前は、声なき声で言うのだ。「私は自由だ!」と。

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