承認欲求。
これは、人間に生まれつき備わっている”機能”のようなものである。
おそらく、集団生活の中で他者に認められ、承認されることによって自らの身を守り、繁栄していくためのものであろう。(しらんけどね)
一つ言えるのは、承認欲求は、肉体が持つ”恐怖”に根ざした欲求であり、自らを守るための欲求であるということ。
そして、”幸せ”や”うちなる平和”につながる欲求ではないということだ。
「私はすごいとあの人に認められたい」「私は劣っているとあの人に思われたくない」「私は素晴らしいと思われたい」
自分を観察していると、日常のあらゆる場面で、上記のような思考とともに”人に認められるための行動”を起こしたくなる衝動に駆られることがあるでしょう。
そしてその衝動に乗って、”自らをよく見せるための行動”をとることになる。
そんな承認欲求に従った行動は、自らに”緊張”を作り出す。そして、そういった行動をしているとき、僕らは”愛・全体・幸せ”ではなく”分離・個人・苦しみ”を選択したことになるのです。
そういった行動をしたことによって、他者に認められたとき、心は一瞬の高揚感と幸福感を味わうだろう。
反対に、他者に認められなかったとき、心は一瞬の落ち込みと、苦しみを味わうだろう。
そして、恐ろしいことに、この”承認欲求”というものは、終わりが一切存在しないのです。
一度は承認され幸せな気分になったとしても、また気づけば承認を求める。そして何度も承認されたとしても、承認されることが当たり前になった心は、より大きな承認を求める。反対に承認が得られないとなると、心は大きな苦しみと恐怖を感じる。
そう、承認欲求は、延々延々と、一時の幸せと苦しみを行ったり来たりする。そんな性質のものなのです。
そんな承認欲求から自由になる方法。
それは、承認欲求が起こったらただそれに気づき、従わない。承認を求めて動き出したくなる衝動を観察し、従わないでいること。
ただ客観的に観察することに成功すると、承認欲求は、気づけばスッと溶け去ります。
承認欲求が起こるたびに、ただただ観察し、それを溶かす。従わない。
それが唯一の、”承認欲求からの自由”なのです。
心というものは、単なる機能である。それゆえに、承認欲求に従わないでいると、段々と心自体も、承認欲求の不要性に気づき、欲求や衝動自体が起こらなくなっていくのです。
しかし、これはそこそこ難しい。笑
以前の僕も含め、最初からこれはなかなかできない。笑
瞑想が好きで、自分を観察することに慣れている人は、上記のように、その都度承認欲求を観察し、自由を選択したらいい。
しかし、僕みたいに、もともと承認欲求強めだったり、従わないのが難しい方は、”承認欲求を自分で満たす”ことや、”承認欲求の元になっている信念を解体する”などして、「自分は人に認めて貰う必要もなくありのままで素晴らしいんだ!」と気づいていく必要があるかもしれない。
僕は以前、瞑想などがあんまり得意ではなく、観察して溶かすということが難しかったので、自然にこっちの道をたどりました。
そう、本来僕達は、誰に認められる必要もなく、何を持っていようと何も持っていなかろうと、どんな自分であろうと、完全完璧な存在であり、一切の罪もないのです。
ですから、人に認められたいと思うたびに、自分に慈しみを向けてみましょう。
「あなたはありのままで素敵だよ」「あなたのことは私が認めているから大丈夫だよ」「どんなあなたでも愛してるよ」そんなふうに、自分に愛を向けてみましょう。
そんなふうにすると、だんだん心もほどけていき、”承認欲求を観察し従わない”ということがやりやすくなるでしょう。
まあ、色々詳しく書き出したらキリがないので、今回はこの辺にしましょうかね。
今回、長めの記事かつ、少々難解だと思う方も多かったかもしれません。
そんな記事を、ここまで読んでくださった方、本当にありがとう。🙏
互いに、自由を選択し、悠然と日々を歩いていきましょう✨
では、また!!!